満月のジャム(『海に降る雪』より)

  • 2017.09.30 Saturday
  • 10:37

既刊の『海に降る雪』より、「満月のジャム」です。

 

こんな感じの短い切れ切れの掌編を九つばかり収録してます。

 

架空の海辺の街を舞台にした、連作掌編集です。何となく寂しい気分になる話ばっかりです。

 

 

 

 

 

「ジャムはね、夜更けに煮るの」
 

昼間摘んできた庭の畑の木苺(きいちご)を手でほぐしながら、母は私にそう教えてくれた。

 

「必ず、一人でね」
「どうして?」
「夜の静けさを一緒に煮込むためよ。」

 

微笑む母の指先は、木苺の潰れた実に染まって赤かった。幼い私はそれをぼんやり眺めている。あれを舐めたら、甘いだろうか。果実の汁の赤く色付いた滴りは、見ているだけで舌の上が甘酸っぱくなりそうだった。

 

「さあ、ここから先は男の子は見てはだめ」

 

ジャムを煮る時、母はいつもと違って妙に華やいだ雰囲気になった。普段の声音とは少し違う、喉の裏がくすぐったくなるような声でそう言うと、私の背中を押して台所から追い出そうとした。私は母の声に、愉快なのか不愉快なのかよくわからないような、どうにも据わりの悪いむず痒さを覚えていた。

 

けれど幼い私は、美味しそうな香りにつられてどうしてもその場を去りがたかったのだろうか。いつもは親の言うことをよく聞く良い子であったが、この時ばかりは母のエプロンの裾をきゅっと掴んで、縋るように首を傾げた。

 

「夜の静けさって、なあに」

 

幼い声で尋ねると、一度は追い出そうとしたくせに母は私を邪険にもせず、潰れた木苺を鍋に移し変えながら答えてくれた。

 

「夜の静けさってね、とても小さなものなのよ。朝でも昼でも、本当はいつでもそこにあるのに、小さ過ぎて誰も気が付かないの。本当にかすかで、夜更けに台所で一人で耳を澄ましている時にだけ、その静けさが聴こえるの」

「静かなのに、聞こえるの?」
「静かだから、聞こえるの。その音を木べらでジャムに練り込みながら、夜が終わってしまうまで、時間をかけて弱火でくつくつと煮るのよ」

 

母はそう説明しながら、大きな匙に山盛りの砂糖をすくって、どさり、どさり、と何杯も木苺の上に落としていった。真っ白な雪のような砂糖の山に、赤い汁が下からじくりと染みた。

 

「もし、一人じゃなかったら、どうなるの」

 

幼い私は幾分、緊張してその問いを発した。母は匙で砂糖と木苺をさくりさくりと混ぜ合わせながら、夜の底に横たわる何ものをも壊さないような静かな声で答えた。

 

「そうね」

 

母はちょっと言葉を切って、木べらを置くと、おもむろにその赤く染まった人差し指の先を唇で吸った。

 

幼い私はいやにハッとして母のその仕草に見とれた。口の中に唾液が湧いた。指先をくわえたまま、母はほんのりと眉の間をくつろげて微笑む。ああ、やっぱり、甘いんだ。

 

「腐ってしまう、のかも」

 

そう言った母の笑みからは、甘酸っぱい木苺の匂いがした。その両手の五指の先が、みんな同じように赤い。私は母の指を見ながら堪らない気持ちになる。ああ、あれが全部、甘いんだ。

 

 

 

 

その女はいつも、橋のたもとに敷かれた茣蓙(ござ)の上に、呆けたような顔をして座りこんでいた。

 

通学用のズタ袋を背負った私は、女の横をいつも足早に通り過ぎるようにしている。呆けた女の視線が私を見咎めることはない。女の目はいつも虚空の同じ一点に向けられたままである。女は何も見つめていない。けれど、それは見てはいけないもののような気がして、女が居る道を通るのは妙に後ろめたい。

 

女は何をするでもなく、ただぺたりと茣蓙に座って中空を見つめているだけである。日がな一日ずっと、女は同じ姿勢で居る。まるでそこだけ時が止まってしまったような気分にさせられる。

 

だがしかし、時々同じように座り込んだ姿勢のまま、女がイチジクの実をかじっていることがある。

 

女が立ち上がるところを見たことの無い私は、あれはどこから持ってきたものであろうか、それとも、誰かが女に与えたものであろうかと考えていた。女がかじるイチジクの実は、いつもとても新鮮なのだ。

 

女がイチジクを齧っていると、辺りには果実の良い香りがふわりと漂う。女はそっと、その時だけは中空から視線を外し、手元のイチジクを見つめている。たっぷりと溢れた果汁は女の顎に滴り、その喉や胸の上の骨を濡らす。咀嚼したイチジクの実をこくりと無心に飲み込む、上下する女の喉頭は柔らかくて白い。

 

あのイチジクがジャムになることは無いのだろうなと、女のあの動物のように無垢な瞳を思い出しながら、大人になった私は時々考えている。

 

 

 

 

娘は微笑みながら人差し指を唇に当て、口を噤(つぐ)むと、茂みに分け入って無言で木苺を摘み始めた。

 

おまじない、と確か娘は言っていた。お喋りをしながら摘んだ果実では、良いジャムにならないのだそうだ。甘い潮風が海から吹く月の満ちる日に、誰とも口を聞かずに詰んだ果実を黙って鍋で煮込むと、特別に美味しいジャムになるらしい。昔からあるまじないだ。確か失敗すると、ジャムが早く腐ってしまうのではなかったか。

 

果実畑の中を言葉も無く、くるくるとせわしなく動き回る娘の様子を私はぼんやりと眺めている。木苺摘みに熱中する娘の姿は、そのうちに茂みの向こうに隠れて見えなくなってしまった。

 

手持ち無沙汰になってしまった私は己のあやふやな記憶を辿りながら、まじないが失敗するとジャムが腐ってしまうのではなく、結婚が出来なくなるのだったかな、などと埒のあかないことを考える。いずれにせよ、包丁の握り方も正しく分からない中年男である私には、あまりに縁遠い話である。

 

ジャムにするしかないような熟れすぎた果実の香りは、何かの瞬間に香る女の匂いに似ている気がする。だがしかし、私はその瞬間が何なのか、永久に言い当てることが出来ないであろう。

 

やがて籠いっぱいに木苺を摘んだ娘が、茂みからひょっこり姿を現した。娘はようやく口を開いて、無邪気に破顔した。

 

「父さん。この木苺、とっても良いジャムになりそうよ」

 

弾んだ娘の声はくらりとするくらい、母やそのまた母に似ていた。

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